思いの中に生きる

私たちは環境の中に生きていると錯覚をしていますが、実は思いの中に生きています。例えば、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだ、或いはお墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、必ずそこへ行きます。

死ねば、思いの世界、心の世界ですからね。死んでお墓の中に入ったら駄目です。或いはお仏壇の中へ入っては駄目です。

今まで一般に皆さんが考えておられたことと違うと思いますが、お仏壇やお墓はこの世の現象世界の物質ですから、物質に心をとらわれては、そこから心が離れられず、成仏できないのです。

いかに煌びやかに飾られた仏壇であろうとも、いかに大きなお墓であろうとも、そこは決して天国ではなくこの世の物に過ぎないのです。

こうしてお墓や仏壇に思いを残していつまで経っても救われないでいる見えない世界の方を救わせて頂くのが救霊です。

亡くなられた方の法事というものをよくしますね。皆さんも三回忌、七回忌、十三回忌をつとめられるでしょう。この法事の姿をよく観察しますと、お仏壇があって、その前にお坊様が座られ、後ろに親戚縁者が座ります。
そのお坊さんを仲介してなくなられた方の供養をするわけですが、後ろにおられる親戚縁者の方達の心を観察いたしますと、皆共通して同じ心を持っておられますね。

「何やわからんけど早くお経が終わらないかなあ、しんどいなあ、足が痛くてたまらん」という思いです。
「ああ有難いなあ、三部経は何と有難いなあ、私はこのお経のように生きよう」と思っておられる方は一人もありません。

皆さんはいかがでしょうか。法事で三部経を聞いて有難いと思いますか、思えないでしょう。なぜ思えないかと言うと、それはお経の意味が何を言っているのか分からないからです。分からないから余計に退屈で、足が痺れて早く終わらないかなあと足をさすっているのです。

そして休憩の時間になるとやれやれとお茶をいただくのですが、これから又、お坊さんのお説法のあと読経が始まるとなると、「やれやれおそろしいよ」ということになります。

そして次に死んだらどうなるかと言いますと、お坊さんを境として生きている者は後ろへ、死んだ者はお坊さんの前に座ります。そしてお経を聞いてどう思っているかと言いますと、お坊さんの後ろにいれば、まだ足もさすれたけれど、ここでは足を伸ばしたり、くずしたりもできず、「かなわんなあ」と思っています。それが亡くなった方の心境です。

「もういい加減に終わってくれないかなあ」と思うだけで、お経をあげてもらっても何も有難いことはありません。それはお経の意味が分からないからですね。

分からないものは生きて聞いても死んで聞いても分かりません。法事のお経を、お坊様を境として生きて後ろで聞くか、死んで前で聞くかの違いですから、同じ思いをしているということです。

長尾弘先生の書籍「求める愚か者の独り言」第一巻より抜粋しました