救霊の経緯
僧侶や神主や修験者でもない謂わばこの道の素人である私が、なぜ先祖供養や土地の救霊を行っているのかについて疑問を持たれる方が多いかと思います。
また、世で言う除霊・浄霊・お祓い等々と救霊法との違いについて理解して頂くために、ここに至るまでの経緯を説明させて頂きます。
長尾先生との出会い
私は1988年1月17日に行われた東京講演会で初めて長尾先生との出会いを頂きました。その時、このお方こそ神様の媒体となるに相応しいお方であると確信したのです。
その時の様子は私の恩師・長尾弘先生の項目に詳しく書きましたので、そちらをご覧ください。
その頃は42歳になったばかりでしたが、長尾先生のご講演をお聞きした後、それまでの愚かなる我が心をいますぐにでも改めなければならないと決心したほどの衝撃的な出会いでした。
心のあり方と実践
その翌日からは早速自分の心を洗い直すと共に、即実践に移したのでした。
その実践とは、瞑想をしたり勤行を唱えたり肉体行をすることではまったくないのです。
日々の生活の中で腹を立てない、愚痴を言わない、過ぎたる欲望は抱かない、悪口は言わない、取り越し苦労はしないというごく当たり前の事でした。
これを実践したのです。
それからひと月もの間、来る日も来る日も心の学びを深め、心の草引きをしたらこれまでにない心の安らぎを体得したのでした。
長尾先生との旅で学んだ救霊法
初めてお会いしたその年の5月から長尾先生との旅が始まりました。
長尾先生は病んだ人々を救い、道を求める人々に指針を与えるために日本各地を旅し、翌年からはヨーロッパ各国やアメリカ各地へと癒しの旅をされました。
赴く先々で講演をされ、癒しをされ、またある時は救霊をされているところを数限りなくビデオに収録したのでした。
海外でもそうですが、特に日本各地には病んでいる方や憑依されている方が多くいて、その都度救霊をされたりお宅へ伺ってお墓や仏壇の救霊をされたりしました。
青森では小説や映画にもなった「八甲田雪中行軍遭難事件」で199名の陸軍兵が凍死して、いまだに兵隊さんの足音が夜な夜な聞こえるとの事で、地元の方たちが「亡くなられた兵隊さんたちが可哀想なので、どうか救ってあげて下さい」とのことで長尾先生がその場所へ行かれて救霊をしたところ、それ以来足音が聞こえなくなったそうです。
またある時は酒田市から山形市内に通じている月山道路に幽霊が出て交通事故が絶えないとの事で、地元の方の要望に応じて救霊をされたのを撮影したこともあります。
以後、幽霊騒ぎも交通事故もピタリと止まったとの話は書籍「真理を求める愚か者の独り言」に掲載されています。
余談が過ぎましたが、初めてお会いした時からその後13年にわたって長尾先生と共に世界を旅し、行く先々で救霊の撮影をしたのは数えきれないほどの回数です。
その映像は「霊的現象総集編」として保存しています。
長尾先生が行われる癒しにしても救霊にしても、永年この目で見ている内にいつしかその要領を覚えてしまった様です。
俗にいう門前の小僧・・・・・、です。
慈悲の心と深奥なる愛の救霊法
しかし、見て覚えるというのは長尾先生が見えない世界に向けて語る文言ややり方だけではなく、救霊の心・・・・、つまり救霊そのものの姿勢というか、あり方を学ばせて頂いたのですから、単なる門前の小僧ではなかったかと思います。
長尾先生の救霊法は他に類を見ることがないもので、その道のプロであるところの僧職や神職に携わる方たちのやり方とはまったく違うものです。
いわゆる除霊・浄霊やお祓いとは真逆の方法であることに気付いたのはそれから数年が経過してからの事です。
なんとなれば一般的な除霊や浄霊は霊を追い払う方法(お祓い)であるのに対して、長尾先生の救霊法はご自分の心の中に招き入れる方法なのです。
愛にあふれた救霊法
「出ていけっ!」と言って排除するのと「どうぞ私の心の中にお入りなさい」という愛にあふれた救霊法とでは180度異なる救霊法なのです。
西洋の悪魔祓いともまったく相反する救霊法です。
「迷っている方は私の中にお入りになってください。そして私の心を通して天上界へお帰りになってください」。
こんな優しい人がいるでしょうか。
現実世界では誰もが、見えない世界で迷っている方たちを毛嫌いしたり差別をしたりして追い払ったり、結界を張ったりするものを長尾先生は自らの心の内に招き入れられるのです。
それが長尾先生が行われた究極の救霊法です。
幾とせも闇に迷いし霊なるも我と等しき神の子なりて
いまこの地上界で肉の身を持って生きている私たちも、幾百年もお墓やお仏壇や土地に執着していて成仏しておられない見えない世界の方も、神様からすれば皆んな愛しい我が子です。
その愛しい子どもたちが長い年月苦しんでいるのです。
それを思うと、私の命を提供してでも救わせて頂かなければならないと思うものです。
私は長きにわたって奥深き優しさを学ばせて頂きました。
この地上の生きとし生きるものすべてに愛を尽くし、そして見えない世界におられる方たちにも慈悲の心で接してやまない長尾先生の救霊法。
長尾先生にお会いしてから34年。
心の学びを深めつも、紆余曲折と艱難辛苦に見舞われてやっとたどり着いたこの場所こそが、闇に迷える諸霊をお救いするお手伝いをすることでした。
2007年に長尾先生が天上界へお帰りになられて15年を経て漸く救霊法の入口に差しかかったばかりです。
救霊法は孤高の領域
しかしです。
長尾先生を開祖とする救霊法は私を含めて他のなんびともその域に近づけるものではありません。
その訳は魂の段階が遥かに違うからです。
愛の深さが格段に違うからでもあります。
この救霊法は学んでも学んでも到達できない領域にあるのだという事を長年学んだ結果知り得たことです。
孤高の領域・・・・・・、
それを分からないままに長尾先生の真似をして、つまり形だけを真似して見えない世界の方を救おうとした結果、心身にダメージをきたして余命一ヶ月の状態になったのは2012年11月のことです。
その時の様子はこちらに詳しく書きました➡浄心療法で余命1ヶ月。
その時、なぜ死にそうになったかは私の心がけにあった様です。
長尾先生の真似をして、見えない世界の方を自分の心の中に招きいれたのですが、その時の私の心は悪想念で汚れていたようです。
その後、奇跡的に回復したという貴重な経験をしました。
人様の心身の癒しという仕事をしていると、どうしても救霊をやらなければならない場合が多々あります。
なぜなら、病気や家庭不和、或いは人間関係の諸問題が憑依現象によるものがあまりにも多いからです。
避けて通れぬこの道を行く
この為、たとえ命懸けであろうとも救霊法は避けて通れない道なのです。
つまり、救霊をしなければ治るものも治らないのです。
体が回復して数日した頃、不治の病で現代医学から見放された方が遠くから訪ねて来られたのです。
この方の病は霊的な事が原因となっているに相違ないと感じたのですが、そうなると長尾ヒーリングの治療家として救霊法をやらざるを得なかったのです。
不治の病で辛い日々を送っている方に対して、救霊をさせて頂くことでその方は必ず治るのだという確信が私にはありました。
事実、その時は救霊をさせて頂いた結果、病が癒えて喜んで家路につかれたのでした。
人が癒されて喜ばれると、その喜びはその人だけのものではなくて私自身の喜びにもなったのです。
まことの救霊法とというは、命を提供する事で自分の心がこんなにも豊かになるのだという事をあらためて知ったのはその時だったかと思います。
自分の命をとるか、人救いをとるかの選択ですが、長尾先生が言われていたことは、「自分の命を相手の方に提供しなさい。自分の命を相手の方に提供したその時、神がその方を治してくださいます」との事でした。
では命を提供しさえすればいいのかという考えはあまりにも安易に過ぎないと思います。
相手の方に自分の命を提供するという行為のその前に、日々の生活の中で心の学びを継続する事は勿論、無償の愛の実践「心と体の癒しの会」を数限りなく行わなければならないと悟りました。
なぜなら魂が豊かになり、心は喜びで満ち溢れるからです。
過った救霊で命を失いかけたあの日から10年経ちました。
当庵を訪ねて来られる方は殆どすべての方が救霊を求められるので、この10年で数千人の方に対して救霊をしたことになりますが、苦い経験をしたお陰で多少は謙虚になれたのでしょうか、それ以来一度も救霊法で床に臥したことはありません。
心は愛を求め、肉体は楽を求める
ただ、どうしても次元が異なる見えない世界の方との関わりをもたなければならないので、心身の消耗は著しいものがあるのは否めません。
命懸けの救霊によって心は喜びに満たされるのですが、反面その事で肉体を極限まで追い込まざるを得なくなるのです。
私たちの肉体は五感六根煩悩に支配されています。五感は肉体を守るために神様から与えられている道具なので、どうしても自己保存の思いは避けられないのです。
自分の肉体を危険から避けなければならない、危険から遠ざけなければならない。
そうしなければ生きていくことができないのです。
だから、肉体を限界まで追い込むという事は自己の保存が出来なくなるということです。
自己保存の思いこそが肉体煩悩の悪魔の装いです。
ところが心は逆です。
肉体を犠牲にしてでも愛を行いたいのです。
肉体と心はここに大きなギャップが生まれます。
ではこの肉体の支配者は誰か。
他ならぬ心そのものです。
心が舵取りをするのですから、従者である肉体は支配者に従わざるを得ません。
人を救いたい、見えない世界の方を救わなければならないと思うのは心そのものであり心の本質です。その心が愛を行えば行うほど従者である肉体は酷使しなければならないのです。
その事によって心は喜び肉体は苦しみます。
矛盾しているようですが、これが私たち人類の心と肉体の実態です。
その結果、やがて肉体の限界を越えて自己保存の思いが消え去ります。
自己保存が消えたその時、心の奥底に鎮座ましましておられる真(まこと)の神様がお出ましになられるのです。
その真の神様が長尾先生を媒体として瞬時にして人を癒し、見えない世界の方たちを一斉に救われるのです。
神様はその愛ゆえに自らの姿を滅っせられたお方です。
それは私たち自らが神に代わって愛を行うことができるからです。
私たちは神様から愛を行うチャンスを与えられたのです。
その神様は私たちの心の奥底に鎮座ましましておられて、私たちが愛を行うのを待っておられるのです。
これが長尾先生の救霊の構図です。
だから、救霊法は孤高の領域にあり、なんびとも近寄ることすらできないものですが、学びと実践を重ねた上で自分の肉体を限界まで酷使する事によって自らが媒体となる事ができるということです。
つまり、迷える諸霊と長尾先生の間に自分が介在する事によって長尾先生と神様がお働きになられるのです。